昔、高校生の頃に担任の先生からプレゼントされた本を読み返してみました。
この本を高校生に渡すなんて、今考えるとちょっぴり不思議。
その本は、少なくとも現代において、世の中の法則を手っ取りばやく簡潔に認識するにはとても敷居の低い啓発書だと感じたものでした。
当時はパラパラと読んだだけで、閉じてしまったのですが、先生が伝えたかったことを本に託したんだと思います。
高校生の頃、私は心を壊してしまって学校を自主退学したのです。今思い返しても辛かった青春時代。
子供の頃から感じていたいろいろな違和感が爆発したのです。
今なら、それらを抱きしめてあげられるくらいには大人になれたのかなと。
先生からのメッセージはきっとシンプルなものだったのでしょうね。でも当時、誰にも相談できずに私は心を閉ざしてしまったのでした。
そして、今その本を通して見つめることは多くあります。大人になった私はあの頃の私に叫びなさいと言いたいです。辛いことを辛いと言いなさいと言いたいです。
思考はどんどん現実を作っていくので、自ら問題をより複雑にしてしまうのです。
たとえ問題を抱えていてもそれらを解決に導く方法はたくさんあるはずなのに。
辛いことは辛いと、助けてほしいことは助けてほしいということが、原因を取り除く第一歩。
ましてや子供なのですから、素直に大人に助けを求めるべきです。
そのまま大人になると癒せる機会はどんどん減っていきます。
その本には原因と結果、もっと言えば宇宙の法則を知るには断片的であっても充分だと思える法則が記されています。
そしてより現実的。宇宙の法則を語ろうとするとき、科学的に論じられる風潮はまだ現代では少数で、どこか人はそれらを避けています。でも、光へと導くヒントはこういった精神的な法則の中にあります。
この本はそのことをシンプルに記してくれています。
どこかファンタジックになりがちな精神(意識)世界の話は今の世の中、避けては通れない真理が隠されていることは疑いようがないと今の私は感じています。
そして、むしろ避けてはいけない時代になっているように思います。
もちろんファンタジックな概念は逃げるためのものでもなく幻想に浸るためのものでもなく、ひきこもるためのものであってもいけません。
現実に立ち向かう原動力としなければいけないと感じます。
気持ちが大切なのであって、複雑で酷で単純にはいかない現実があるという事実は当たり前であり前提ですが、その思いを抱くことが現実をよりよくしていく現実的な活動の源になるということを忘れないために…多くの哲学はその形のなかに宇宙の法則をより認識しやすい現実レベルで包み込んでいるのだと思います。
宗教に身をゆだねる危険性が認識される昨今であり、宗教という形にこだわることなく人は気づける時代にもなっています。
大昔は人々の心が疲弊していたため、形としての宗教は確かに必要な時代があったかもしれません。
でも、現代で語るとき、真理や気づきは作られた宗教という形の中にあるのではないということは改めて私は感じています。
そんな現代だからこそ、それらのことを踏まえたうえで、
この本は私たちが認識できる常識や理論の中に落とし込まれ、決してファンタジックな内容ではないレベルに収まっているバランスの良い素敵な書だなと感じています。
今更なのですが、この本の中身をじっくりと見つめたのは大人になってからです。
ずっと埃にかぶっていたこの本は、私を守ってくれていたのかも知れません。