成功者の教えには感謝することの大切さがよく書かれています。
うん、異論なんて全くございません。
でも、自分が自分であるために社会や人の中でもがくとき、その辛さから感謝する気持ちどころか、怒りや憤りに自分の心が蝕まれてしまうことがあります。
すごく悲しくて怖いことなんですけど…。
何も伝えたくない!無駄にエネルギーなんか使いたくない!それでも、生きていく上で闘わなくちゃいけないことに出会うのが人生。理不尽なことにもたくさん出くわします。
それがたぶん、生まれてきた意味の断片的なヒントを得るための材料なのだとは思っています。でも正直、常に平和でいたいって思うし、意見は心にしまい込んでできる限りぶつからずに生きたい。「どうぞご自由に、私の人生には関係ないもの。」なんて思うことも。
でも、自分だいぶサボってんなぁ…と思う時があって、何も言わずに我慢して自分の中で消化したり、ぶつかることを避けてばかり。楽なんですよね。自分が耐えちゃう方がぶつかるより何倍も楽なんだよねぇと思ってしまう私。
ふぅ…
でも、なんの化学反応も生み出していないからずっと平行線のままじゃん…なんて思ったりして、それで意見を突然ぶつけてみたり、行動で示してみたりする。
そんなときは相当なエネルギーの消耗が起きて寝込むことも。すぐ元気になるけどね。
気が強いんだか弱いんだか両極端な自分が交互に出てきて、私っていったい何なんだろうと思うこともしばしば。
話がずれたけど、頭ではわかっていても、菩薩じゃないんだから怒りが芽生えることなんていくらでもあって当然ですよね。
客観的に自分をみつめると、「あらあらそんなんじゃもっと辛いこと引き寄せてしまうかもよ?」と、問いかけているもうひとりの自分に出会います。
でも、感謝なんかできない。こんな理不尽なことにあって、どうして感謝なんかできるのさ!と卑屈にもなったりもするわけです。
感謝というのは感謝しようとして感謝できるものではないと思っています。感謝は自然と湧き上がってくる感情で、嘘偽りや建前では、感謝の心をもつことで生まれるエネルギーの流れを純粋に享受することはできないと思うんです。
要するに、感謝するから幸せになるわけではなくて、幸せの中にいるとき、心に平穏が訪れているとき、自分が周囲に自然と感謝していることに気づくのだ思うのです。
苦しいどん底にいるとき、手を差し伸べてくれた人に純粋に感謝できない人なんていないと思います。そんな風に自然と感謝している瞬間に、自分って助けられてるなーって感じることありますよね。
するとエネルギーの流れは一気に変わって物事がすーと順調に軌道修正される経験は誰にでもあると思います。感謝の積み重ねで自然とあるべきところに導かれていくのが人生なんだなーって感じたりします。
だから感謝の気持ちを忘れたくない。そう思うのに怒りの感情で何も見えなくなってしまう時があります。
でも、怒りや負のエネルギーで自滅しないように、すぐさま軌道修正して自分の気持を落ち着けたいときには、「自然の存在」を意識するように私はするんです。ほんとに自然に自分を溶け込ませるイメージで。
そうすると、
どんなに怒りの感情を抱いていたとしても、自然に対しては自然に感謝の気持ちが湧いてくる。だから、すっと怒りが消えていく。純粋な感謝に気づけるんです。
やっぱり癒やしてくれるのは私にとって、自然なのだなとしみじみ思います。
もちろん、怒りそのものを抱くことになった現実の問題が無くなるわけではないのだけれど、ちゃんと我に返ってその怒りを冷静に見つめることができるようになるんです。
今日、食べたものも自然で育まれてこそのものだし、今、吸っている空気も自然からのもの、泣きつかれた後に飲む水も自然からのもの。見上げれば月の光にうっとりできる夜も、太陽の光を浴びると元気がもらえる朝も。
誰よりも近くにいる存在が自然で、一番身近な存在は自然なのだと思うことで心の中は優しい気持ちに包まれていきます。
私がどんなに心乱れても、常に優しくそばにいて、ずっと味方で、揺るぎない存在として君臨している自然。
だから、素直に感謝できるのかもしれません。
感謝できないくらい心が乱れているときに、自然を思い浮かべればエネルギーの流れを瞬時に変化させることができます。
ほんとにいつも助けられているなと感謝している存在です。