自然とつながる

多面的な世界の果てで。正しいも正しくないも流動的なもの。

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「そうしたい」なら、「それを信じている」ならそれが正解なのでしょう。

 

そんな風に結論づけると言葉を失ってしまう。言葉というのは本当に不完全なものだと思う。

 

いや、私が勉強不足なだけなのだけれど。感じていることを言葉にしようとすると、頭は論理的な思考に傾いて左脳が動き出す。そうすると、感じていたことの半分も表現できなくなることが私の弱点だったりする。

 

物事は多面的だから、今日正しかったことは明日は正しくないかもしれない。

今の時代なら素敵なことでも、先の時代なら素敵じゃないかも知れない。

 

正しいとされていることでも、さらにそれが真実だとしても、その時の、その人の、その社会でそれが”賢明”なことではないかもしれない。

 

そんなふうに考えていると、もはや何も話すことができなくなってしまう。逃げたくなってしまう。投げ出したくなる。

 

私にとってはこの「選択」は合っているけれど、あなたには合っていないかもしれない。

 

自分の言葉に責任を持て!自分に保険をかけるな!と言われてしまうかもしれないけれど、”断言”できることがこの世界にどれだけあるのだろう。ということを考えてしまうのだから仕方がない。

 

地球は生まれて46億年と言われているけれど、それは果たして本当なのだろうか。人類が生まれて文明が生まれたのは地球の歴史からすれば最近のことだと言われているけれど、何億年も前から人は地球上に存在していたかもしれないじゃないか…。

 

科学や考古学というのを疑う自分が少なからずいる。(そして私の中での真実は上記のことは正しくないと個人的に思っている。)

 

一つの結論として導き出され、世の中に流布されている様々なものは、決して真実というわけじゃない。

 

果てしなくエンドレスに問いかけに問いかけを繰り返していると、一周回って相殺され、意見を失うということが私の中で起こる。何かがはじけ飛んでしまう。

 

 

自分対自分で議論を重ね、やがて哲学的な世界へと誘われていってしまう。そういうことが日常茶飯事。

 

なんか残念な感じ。そして限りなくめんどくせーな自分!となって、思考停止に陥ってしまう。(笑)

 

 

世の中には議論が溢れている。

それを傍観している自分はものすごくずるいなと思ったりする。

 

どっちの言いたいことも、正解だし間違いだよなーって思うから。

 

私にはきっと議論ができない。

私はこう思う。あなたはこう思う。

 

ならば、お互いにお互いの世界を生きましょう。それでいいではないか。

 

そんな答えにたどり着いてしまいそうで…。

 

でも、今の時代も今の社会もそれじゃ前に進まない。問題が山積みで、実際どうしたらベストなのか、世の中全体での結論は出ずに迷走している。コミュニティごとに一つの結論は出ているような気はするのだけれど・・・。

 

正しいのか、間違いなのかは別にして。

 

だから、少し社会と距離を置くのが私にとっては”賢明”なのかなという結論に落ち着いた。

 

もちろん、私の中でこれが正しい、こうすることが真実、そんなふうに信じている信念みたいなものはある。

 

でも、それを意見としてどうして言えるのか。ひとつ言えるとすれば、「みんな好きなことをして生きれば良いんだよ」となる。

でも、これにも一定の条件がつきまとう。それをここで言挙げするのは控えたいと思うのだけれど、「自立」と「調和」という言葉にそれらを内包させて置き換えておきたいと思う。

 

ものすごーく抽象的だけれど、誰も傷つけない一つの真理だと思っている。

 

私が探しているのは真理で、それは自分の中に響く囁きを聞き分けることができた時、舞い降りてくる。

 

正解でも、間違いでもない真実としての真理はきっと笑ってしまうくらいにシンプルで、無邪気で純粋なものだと思っている。

 

誰も傷つけることがない、誰でも分かち合える、そういう真実なら、とりあえず、正しいかは別にして、幸せへのヒントにはなるのかなと。