自然とつながる

ありのままにいるということの難しさみたいなもの

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自分らしく。

ありのままに。

 

そうであろうとすればするほど幸せになれる。そんなふうに様々な場所で、様々な媒体で語られ、哲学の分野や精神の分野でもそんなふうに語られています。

 

それはきっと、正しい。そして一つの真実なのだと心から思えます。いや真理のひとつなのだとさえ思えます。

 

それと同時にそれはものすごく難しいことであると痛感するのも事実だったりします。

 

「自分であるため」に闘うことで、きっと手に入れる数々の思慮があるのでしょう。その思慮は幸せの種で、その種は永遠にどこまでも持って行けて、いつでも好きな時に蒔いて収穫を楽しむことができるものです。

 

その種を獲得する道を模索するのが生きていくということだと思っています。

 

世の中には、知らない現実や苦悩、痛み、悲しみが隠れています。大多数の人にとってはそれはまるでないものであるかのように扱われていたりします。でも、この世界の片隅でひっそりと生きている人たちがいます。

 

皮肉にも、自分らしくいるために社会と関わることをやめた人もきっといるでしょう。

 

皮肉にも、一人でいる時に自分らしさを謳歌できるという現実を味わうこともあるでしょう。

 

”理解される”という幻想を捨てきれた時に本当の自分らしさを獲得できるのかもしれません。

でも、それが確かな答えだとは言えない。それはものすごく悲痛な傷の先にあるものだと思えるから。

 

その傷を経験しなければ幸せになれないとしても、なぜそういう苦悩する現実が存在するのかを社会は全体で考えなくちゃいけない。

 

その傷を一人で癒すことがあっても、なぜその傷が生まれたのかは多くの人に知ってもらわなければ、活用されないエネルギーのようにただ、無意味に燃え上がり落胆するだけで終わってしまいます。

 

「意味のない苦悩はない。苦悩が生まれるのは世の中が未熟な世界だから。」

 

学ぶ必要のないくらい成熟した世界では苦悩は生まれないのだと私は思います。

 

一人で学べないことを学ぶために社会というものがあると、少なくとも私は考えます。だから、ただないことにされて、流れていくだけのエネルギーの無駄遣いは避けたい。

 

すごく抽象的でわかりにくいかもしれない。でも、見えないものは抽象的に表現することで見やすくすることができたりもするのかなって。

 

一人ひとりの解釈が違っても、一人ひとりに見えてくるものは少なくとも存在しているものですからね。

 

だから、曖昧で据え置きという受容も理解のうち。理解できないものを、社会や自分の中にある常識や固定観念に収めようとするのは、やってはいけないこと。ただ、ありのままを受け止めるという受容が一つの理解の形だと思うんです。

 

 

押し付けられた理解、もしくは間違った理解をされたまま、その社会では生きられない、息苦しい。その中で自分を表現できない。そんなふうに、葛藤しながら生きている人達は少なくないはずです。

 

 

猫が一匹、狼の群れで生きなければいけないとしたら、彼はどんなふうに自分らしく生きようとするのだろうか。

 

狼のふりをして、狼になりきれているかをいつも気にしている。周囲の当たり前の狼の世界で彼は一人孤独を感じながらも、その当たり前の世界で、幸せなふりをするのだろうか。

 

それとも、その群れから離れ、猫として自分らしく自由に生きることを選ぶのだろうか。孤高に生きることで、自分だけの世界に引きこもってしまうのかもしれない。

 

これを間違っていると果たして言うことができるのだろうか。間違っているというのなら、世界を広げるべきなのは猫ではなく、狼のほうかもしれない。

 

その猫は十分傷つき、そして一つの結論を出しただけとも言えるのだから。

 

その猫は夢見ているかも知れない。いつの日か、狼の世界で猫としてありのままの自分を謳歌しながら幸せな毎日を過ごすことを。

 

狼たちに認められ、そして一員としてありのままに生きている自分を。

 

その世界に到達する道のりは険しく長い。簡単だとは言えない。

 

でも、ひとつ言えることは、たった一人の味方に出会うことができたら、もうその猫は、

 

傷ついた心を

 

理解されたいという思いを

 

簡単に手放すことができると思う。

 

理解されなくてもいい。「自分は自分」と言えるようにきっとなれると思うんだ。

 

そのたった一人の味方を探す旅に出かけようじゃないか。