どうして日本語には一人称の呼び方がたくさんあるの?
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この疑問はしばしば議論され、現代日本語の立場からみても謎が深いひとつとして知られています。明確な定説を唱えることは不可能かもしれません。
海外では、一人称というのは一つしか存在しないようです。英語ではI(アイ)。女性でも男性でも一人称はアイであるし、 韓国語ではナヌン(二つあると言われます)。女性でも男性でも同じ一人称を使用しています。
少なくとも、一人称が多様化されている日本語は世界に類をみないといって間違いありません。 日本に限定して進めていきますが、一人称と呼べる言葉は正確には把握されておらず、一般的には男性の場合「僕」、または「俺」、女性の場合は「私、(わたし)」などを用いています。
ビジネスや公の場合では、男性でも私(わたくし、わたし)は用いられ、明確に定義される一人称が存在していません。暗黙の了解、曖昧な、不確定な空気感の中でそれぞれが一人称を用いているところがありますね。
面白いのは、一人称を介して自分自信を表現する自由が日本にはあると言え、限定されていません。言ってしまえば何でもアリな状態。女性でもオレと言ったりする者は存在していて(少数ではありますが)、自己主張の中で、アイデンティティ(自我)を表現する自由があるかのように見えます。
自分がどう見られたいのかで、一人称の使い分けができるといったらわかりやすいでしょうか。さらに言えば、自分を表現する一人称に選択肢があることが幸せであるとも言えますね。
ここで、少し紹介してみたいと思います。 「僕」 「私 」「俺」「わたくし」「あっし」「あちき」「あたい」「おのれ」「せっしゃ」「自分」「ワラ」「オイラ」「わし」「わい」「わて」「おれっち」「おいどん」、おいどん(笑)…。
もちろん今は使われていない一人称もありますが、まだまだ実はあります。ざっと思い浮かんだだけでもこの量。ほんとに何でもアリです。自分をそう表現したければそれでいいという感じです。 まるで、今からでも一人称は作ることができてしまいそうな印象を受けます。
そもそも日本語とはアルタイ語族に属し、トルコ語に通じると言われています(諸説あります)。 にも関わらず、独自に進化を遂げた日本語はまさに神秘的です。日本における言語の発達は、自然神羅万象、歴史や価値観、思想が大きく反映されているのでしょう。
まず、神道という日本独自の概念があります。宗教とは一線を画すとも言える価値観です。八百万の神が存在し、人間は自然の一部であり、自然とともに生き、自然(森羅万象)に還るという価値観。
あらゆる存在を否定することなく、とりあえず受け入れてしまうという価値観は神道からきていると言えます。 よく表現されるのが、いいとこどりの文化。そこにそれがあり、それが素晴らしければなお、認め、迫害も除外もしない。悪であるならばそれは自然淘汰によって包括されていく。多様な見方が生まれることが本質であり自然なことであり、価値観の押し付け合いは意味がなく建設的ではないという思想です。
要するに言語における一人称も名乗ってしまえばそれが一人称であり、一人称は一つだと限定されることなく広がり定着していったと言えます…。強制されないわけです。 敬語が生まれたのも、自分の立場を相手に伝える一つのツールとして作り出されたのであろうし、そう考えればその人が考える自分の表現の仕方や立場に独自の哲学が含まれていたのかもしれません。
自分をオレと名乗ろうが、私と名乗ろうが、本人がそう名乗るのだから、それ以外に言いようがなくて、否定する必要もないということ。 ただそれだけのことなのではないでしょうか。そしてそれが残っていったに過ぎないということ。
日本において、苗字が多いのも、森羅万象の中で自分が生きている場所や哲学を通して多様に表現していますし、古来から渡来文化や人を認め共生し受け入れ、和合していった結果、ありとあらゆるものが日本的なエッセンスを組み入れて残っています。それが日本であって、その精神性が今日まで日本は受け継がれてきたと言えるのでしょう。 漢字を使い、ひらがなを使い、カタカナを使い、ローマ字(数字)を使う…。
これは世界に類をみない日本独自の言語発達です。 発達というより変化といえますね。多様なものが存在するところに発祥の種があるという見方もできます。 日本語は地球上においても奇跡的に言語の本質を残したまま現代に生きています。
まさにこれが日本精神の象徴であり、一人称ということをクローズアップすればなぜ?という問いに行き着きますが、 全体を見れば一人称が多くある、この日本語自体が何も不思議なことはなく自然なことであると思えてきます。
そう、そこに木があり森になるように、一人称がたくさん増え多様化した。ただそういうことに過ぎないんだと。それが「日本で発達した日本語の一人称である」、ということなんだと言えるのでしょうね。